浜松同志社クラブについて

浜松同志社クラブは静岡県の大井川以西の同志社大学出身者による校友会です。会員相互の親睦を深めるため様々な活動を行っています。入会を希望される方は事務局までご連絡下さい。

沿革

浜松同志社クラブは昭和23年頃に松菱社長の故・谷 肇さんが中心となって結成されました。その後、平野新太郎さん(商S34卒)、川合邦忠さん(商S42卒)と会長職が引き継がれ、現在は阿部久慶会長(S45法)のもと静岡県の大井川以西の同志社大学OBを対象に会員は約400名です。

毎年1月に開催される新年総会・懇親会には60名以上の会員が参加し、年代や業種を越えてALL同志社の交流を深めています。

1948 浜松同志社クラブ発足 

 

初代会長・谷 肇(松菱50周年史より)

昭和20年、終戦。ヤミ市が立ちインフレが吹き荒れた混乱期を乗り越え、浜松は秩序と明るさを取り戻していった。それは、同志社の「自由主義に育まれた卒業生たちが、伸び伸びと才覚を発揮できる時代の訪れでもあった。新時代の到来と呼応するように、昭和23年頃「浜松同志社クラブ(同志社浜松会)」が発足した。初代会長で後に松菱社長となる谷 肇(昭和19年卒)、株式会社マンボウの鈴木五郎(昭和16年卒)、遠州織機の常務となる伴 成正(昭和12年卒)ら数人でスタートしたようである。                                                 「戦後いち早く、クラブ活動で伴 成正さん、鈴木五郎さん、谷 肇さん等、颯爽たる人達に先導され、温かく、その洗練された所作に大いに薫陶を受けました」(高木邦夫談/昭和19年卒)                          「鈴木五郎さんは論客で、谷さんと凄く仲が良かった。松菱とは違う場所でのブレーン。谷さんの片腕だったね」(平野新太郎談/昭和34年卒)翌昭和24年、「同志社富嶽会」(同志社静岡県人会)が発足。事務所を浜松市高町の大島源吾(昭和11年卒)方に置くとある。

●株式会社マンボウ……『浜松商工名鑑1951』に「繊維著名業者」として掲載されている田町の織物卸売業者。「縞紺織、夜具地、絣(かすり)、丹前地」を扱っていた。鈴木五郎は浜松北高出身でマンボウ専務。
●昭和33年版と36年版の『同志社校友会名簿』を見ると、「校友会支部、倶楽部、職域会」のページに「浜松支部」の記載がある。また、33年版には支部長・谷 肇、36年版には支部長・鈴木五郎の記録がある。

1952 母校と浜松のつながりを作った京都の先人「谷 政二郎」

松菱ビル(昭和62年頃)

浜松最初の本格的百貨店「松菱百貨店」は、昭和12年に開店した。それは「浜松同志社クラブ」初代会長・谷 肇の父、谷 政二郎さんがかつて京都で構想した「四条河原町 松菱呉服店」を浜松の地で実現した店であった。「東京までの東海道筋で発展が期待できるのは浜松」と、当時人口15万人にすぎなかった浜松の将来性に目をつけた。落成した松菱は、鉄筋コンクリート造り、地下1階 地上7階、全館暖房換気装置・客用エレベーター2基を備え、地方都市の百貨店としては画期的なビルとなり、浜松中心市街地の顔として長く市民に愛された。
 現在、松菱ビルは解体されたが、意外な場所にその足跡を残している。昭和27年、開店15周年を迎えた松菱は、桜1,000本を浜松城公園に寄贈した。京都市から取り寄せられた吉野桜、八重桜、山桜、しだれ桜は、浜松市の春の名所となり、今も浜松市民を楽しませ続けている。

●谷 政二郎……松菱創業者。藤原氏の流れを汲む京都の中林家に生まれ、養子縁組で谷家を継ぐ。明治10年に建築された京都駅の敷地は、ほとんど中林家の所有であったという。大正9年、兄・中林仁一郎と共に、京都最初のデパート「京都物産館」を開館(後に「丸物(まるぶつ)」として全国展開)。「谷 政二郎さんが浜松にもたらしたものは3つある。1つは百貨店、1つはライオンズクラブ、今1つは京都裏千家の茶道である」と評され、京都の優れた文化を浜松に伝えた。

1960 地域の発展と共に活躍した同志社マンたち

グリー演奏会に関わった学生達(昭和39年)

浜松同志社クラブ初代会長の谷 肇は、昭和35年から24年間、松菱の社長を務めた。
「昔は街に行くっていえば、松菱に行くという意味だった」(平野新太郎談)、「浜松は工業都市として発展してきましたが、一方そこに働く人たちの買い物を楽しむ場として、松菱は無くてはならない商業施設であったと思います」(安田昌史談/昭和40年卒)、「当時、谷さんは店の入り口に立ってあいさつをしていました」(大場恭夫談/昭和36年卒)
京都出身の佐々木雄三(昭和41年卒/FM Haro !最高顧問)は、大学時代に浜松へ遊びに来た折、松菱の谷を訪問した。「私も同志社なんですって自己紹介したら、そうかお前京都かって京都弁でね。こころよく後輩を歓待してくれた。その後、僕が青年会議所に入って平野さんと知り合うと、平野さんもその席に来るようになった」
後に三代目会長となる川合邦忠(昭和42年卒)の加入もこの頃。「昭和46年に浜松に帰省しました。浜松青年会議所に出向いて、平野新太郎さん、鈴木啓司さん(昭和40年卒)、佐々木雄三さん、大場恭夫さんと出会った。谷会長とも会い、早速入会。谷会長より直々に会計担当を依頼されました」
こうして同志社校友の輪が広がっていき、久野隆造(昭和25年卒)が経営する料亭「久乃秀」に20~30人程で集まることが恒例行事となった。当時の宴席の写真には、昭和47年頃浜松に来た谷 務(昭和23年卒/松菱商事社長)の姿もある。「山に囲まれた京都から浜松に来て、印象深かったのは周囲に山が見えなかったこと」(『静岡新聞』1991年1月2日記事より)
一方この頃、昭和31年から40年にかけて、静岡県人会の学生たちが同志社グリークラブ演奏会を浜松で開催。計9回、のべ1万人を浜松市民会館に集め、浜松における同志社大学の周知と受験者数の増加に貢献した。「旧浜松市歌を初めてステージで披露したのも、同志社グリークラブでした」(安田昌史談)

●この頃、同志社校友会支部が一県一支部に統一され、原則として支部は県庁所在地に置かれることとなった。それに伴い、浜松支部(同志社浜松会)も静岡県支部に組み込まれたが、県域が広いため浜松での活動が停滞することを避けて、同志社浜松会の活動を受け継ぐ「浜松同志社クラブ」を設立し、これまでの活動を継続した。

昭和50年、同志社創立100周年を記念して募金活動を行った。第二代会長の平野新太郎はこう振り返る。「記憶では、確か浜松の割り当てが100万円。みんなも幾らか出したけど、ほとんどは谷さんが出したと思う。谷さんは、大都市の校友にばかり目を向けないで、浜松をはじめ地方にも関心を持ってほしいという気持ちで一肌脱いだはず」

1985 チャレンジの時代

昭和60年代に入ると、会員約250人の規模に成長し徐々に活動の幅を広げていく。昭和61年頃には「8大学チャリティゴルフ大会」を開催。立教大学、早稲田大学、慶應大学、明治大学、法政大学、同志社大学、中央大学、日本大学から100名近い参加者を集め、ゴルフを通じて交流を深めた。好評につき10年以上続くイベントとなった。
また、平成9年には「同志社女子大学音楽学科管弦楽団 浜松演奏会」を共催し、約2,000人の聴衆を魅了した。同楽団演奏会の浜松市での開催は初であった。
平成11年、同志社スポーツ政策フォーラム浜松セミナー「スポーツ振興と行政」講演を開催。ラグビーの平尾誠二監督らを招き、アクトシティコングレスセンターに聴講者が約130人集まった。
長きにわたり二代目会長を務めた平野新太郎は、平成13年、市勢功労者の表彰を受けた。

2018 成長期

平成23年、川合邦忠が三代目会長に就任すると、幹事を増員し活動の幅をさらに広げた。定年退職を迎えた会員も増え、校友同士で顔をあわせる機会がいっそう増えていった。
この頃始まった活動としては、静岡同志社クラブとの春秋の合同ハイキング、合同ウォーキング大会(毎回15~25名程度参加)、総会でのミニコンサート(女子大同窓会との交流)、青春18きっぷを使って京都を中心に日帰り旅行を楽しむ「青春倶楽部」(毎回10人ほどが春夏冬の年3回、旅行会社勤務経験のある鈴木 顕(昭和42年卒)の案内で、平成25年4月発足から本年までに13回を数えた。)、ゴルフを通して会員の親睦を深める「ゴルフ倶楽部」、1970年代に大学構内で盛んに歌われたフォークソングを楽しむ「フォークソング倶楽部」、会員有志の発案による「悠々倶楽部」などがある。

合同ウオーキング(平成26年)

「季節感がなくなっているこの頃、悠々倶楽部は、夏越の大祓や月見の宴、花鳥風月を愛でながら一杯やる会と産業振興の勉強(工場見学)も目的に入っています」(安田昌史談)
平成25年、同志社創立者・新島襄の妻、八重をモデルにして大河ドラマ「八重の桜」が放送開始。総会では放送を祝し、新島襄が雪や風に耐えて咲く梅の様子を詠んだ詩吟「寒梅の詩」を井口計介(昭和32年卒)が吟詠した。またこのドラマ効果を受け、翌年の受験者数が前年度より千人以上増えるなど校友にとって嬉しい報せも聞こえた。
平成26年、クラブ創立66周年の「緑寿」の年、会員約400人。ホームページを開設し外への情報発信も活発化。浜松シティマラソンに川合会長が出場し、94人中27位と健闘した。この年、初めての夏季合同懇親会(同志社大学、同志社女子大学)を行う。
平成29年、四代目会長・阿部久慶就任(昭和45年卒)。同志社大学の村田晃嗣教授を招き、特別講演会「米国新大統領と今後の日米関係」を開催。また、浜松同志社クラブ創立70周年記念講演会と銘打ち、元同志社大学神学部教授・本井康博先生の講演「新島 襄・八重の生涯~ハンサムに生きる~」も開催した。
記念すべき70周年を迎えた平成30年、「同志社フェア in 浜松」を開催。伝統ある同志社グリークラブを招請しての演奏会はアクトシティ浜松の中ホールを満席にし、地元の男声合唱団「オーロラ」ともジョイントして大いに同志社プレゼンスを高める結果となった。「同志社フェアin浜松」の観客動員数1000名余はその後全国各地で開催された「同志社フェア」の観客動員数の記録となっている。
平成31年には、ノンフィクション作家で校友の保阪正康氏による講演会「昭和、そして平成とはどのような時代であったのか」を開催、平成から令和に変わった翌年の令和2年には上方落語界の重鎮で校友の2代目森乃福郎師匠の落語会を開催し、笑顔で新年を迎えたものの世界が新型コロナの感染の大流行に見舞われ、浜松クラブの活動も自粛を余儀なくされることとなった。

コロナワクチン接種が進み世の中がwith コロナに舵を取り出し、浜松クラブも始動し始めて、令和4年1月浜松にて初めての静岡県支部総会を開催。令和2年に同志社大学で初めての女性学長に就任した植木朝子先生を招請しての記念講演会「梁塵秘抄の世界・その魅力について」は聴衆を魅了して多くの人々より好評をいただくこととなった。

令和5年(2023)の新年総会では開催を記念して、校友で平成30年(2018)「銀河鉄道の父」で第158回直木賞を受賞した門井慶喜氏による特別講演「家康、江戸を建てる」を開催。一般の市民も含めて150名余の皆様にお集まり頂き、講演後の書籍販売ではサインを求めての長蛇の列ができるほどであった。

令和6年(2024)の新年総会開催に合わせた恒例の特別講演には元Jリーガーでスポーツジャーナリストの中西哲生氏が登壇。「サッカーの力、スポーツの力~更なる成長に向けて~」とのテーマでベンゲル監督との出会いや同志社大学で学んだ英語力や国際意識がその後の中西氏に大きな影響を及ぼしたと語った。講演終了後はサインや写真撮影に気軽に応じて頂き参加者を大いに喜ばせるこことなった。

浜松同志社クラブは、さらなる未来に向かって前進を続けている。

 

●参考文献『浜松と松菱の50年―松菱50年史』、『谷政二郎会長追悼録』、『浜松市史』、『浜松商工名鑑』、『静岡新聞』、『同志社校友会名簿』、『スポーツの法と政策』